2011年6月14日火曜日

ちまちました人生送るなよ。

みきさんだけはコメント打てるのですね。
他の方のほとんどは無理のようです。
Hootaちゃんの写真も近いうちに載せますので待っいてください。

しかし、車欲しいけど、どうしようかと思っていたところに、車をタダ同然で譲ってくれる人が現れるのはありがたかったです。車種名は「トヨタオーパ」。私にはもったいないくらいです。乗り心地は大変良いです。

さて、今日も「スバル」の時と同じように「トヨタ」の歴史についてさかのぼってみます。トヨタ自動車の発足の中心になった、豊田喜一郎にスポットを当ててみたいと思います。

トヨタ自動車は1933年、豊田佐吉が創業した豊田自動織機製作所の自動車部として始まりました。
織機制作における、鋳造、機械加工技術等のノウハウを生かして研究期間を経て、1935年に自動車製造を開始しました。この時に中心となったのは佐吉の長男、喜一郎でした。

大正10年、東京帝国大学工学部を卒業した喜一郎はアメリカに行き、街中にあふれる自動車に圧倒された。
当時、米国ではT型フォードがベルトコンベアで大量生産されていて、輝ける「大衆車時代」が幕を開けていました。帰国した喜一郎は日本に自動車工業を作ることを決意します。






                  T型フォードの車です。映画の世界ですね。

当時の日本で、産業としての自動車の大量生産は成功していなかった。
驚くほど多様な技術が必要なため、大財閥の三井・三菱でもあきらめた程コストがかかりました。
喜一郎の自動車開発は、当初設定された予算をはるかに超え、開発に対して周囲から猛反対の声が上がる中、2年後、トヨタAA型自動車が誕生しました。 まだまだ世界の水準には追い付かず頑丈なだけだったそうです。




                          トヨタAA型自動車

さあ、これから乗用車を大量生産しようとした矢先、日米開戦となり、軍用のトラックの生産に力を入れていくこととなります。終戦後、戦闘機や軍艦の製造に携わっていた技術者を大量に採用し、多くの人材の英知を結集し、昭和22年、「トヨペット」と愛称の付いたSA型乗用車を完成させます。

                           SA型乗用車

しかし、昭和25年、GHQから乗用車の製造の許可が下りず、細々とトラックの製造を行っていた「トヨタ」は経営危機に陥ります。喜一郎はじめ経営陣の退陣という形で、「トヨタ労働争議」は終結します。

その直後、朝鮮戦争の勃発により、米軍から軍用トラックの大量受注があり経営危機を脱します。

経営から退いた喜一郎は次の乗用車の構想を練っていました。

昭和27年2月、社長として返り咲くことが内定した喜一郎は「乗用車が作れるならと」最後の夢へと燃えていました。

昭和27年3月、豊田喜一郎 死去 (享年57歳)

設計図を広げたまま倒れ、意識を取り戻すことはなかったそうです。

今の日本にはこういう人が必要ではないでしょうか?

自分の信じる道を突き進んで国家に貢献する、豊田喜一郎があと5人いたら日本は生まれ変わるのではと思います。

いい学校いけなくたって、いい会社にはいれなくたっていいじゃないか。

やりたいことを思う存分にやって死にたいですね。






2 件のコメント:

  1. 昔の車ってなんだか
    可愛くて味わいがありますね!
    人間もそうだといいですね~

    返信削除
  2. 霜に打たれた柿には味わいがあるとか。

    辛苦に耐えた人にも、よい味わいがあると思います。

    返信削除